四国八十八か所巡礼 歩き遍路
伊予の国 菩提の道場
番号 | 山 号 | 寺 号 | 納経日 | 番号 | 山 号 | 寺 号 | 納経日 |
40 | 平城山 | 観自在寺 | 平成25年5月 4日 | 53 | 須賀山 | 圓明寺 | 平成25年10月13日 |
41 | 稲荷山 | 龍光寺 | 平成25年7月13日 | 54 | 近見山 | 延命寺 | 平成25年10月14日 |
42 | 一棵山 | 佛木寺 | 平成25年7月13日 | 55 | 別宮山 | 南光坊 | 平成25年10月14日 |
43 | 源光山 | 明石寺 | 平成25年7月13日 | 56 | 金輪山 | 泰山寺 | 平成25年12月21日 |
44 | 菅生山 | 大寶寺 | 平成25年9月15日 | 57 | 府頭山 | 栄福寺 | 平成25年12月21日 |
45 | 海岸山 | 岩屋寺 | 平成25年9月16日 | 58 | 作礼山 | 仙遊寺 | 平成25年12月21日 |
46 | 医王山 | 浄瑠璃寺 | 平成25年9月17日 | 59 | 金光山 | 国分寺 | 平成25年12月21日 |
47 | 熊野山 | 八坂寺 | 平成25年10月12日 | 60 | 石鉄山 | 横峰寺 | 平成26年3月21日 |
48 | 清滝山 | 西林寺 | 平成25年10月12日 | 61 | 栴檀山 | 香園寺 | 平成26年3月21日 |
49 | 西林山 | 浄土寺 | 平成25年10月12日 | 62 | 天養山 | 宝寿寺 | 平成26年3月21日 |
50 | 東山 | 繁多寺 | 平成25年10月12日 | 63 | 密教山 | 吉祥寺 | 平成26年3月21日 |
51 | 熊野山 | 石手寺 | 平成25年10月12日 | 64 | 石鉄山 | 前神寺 | 平成26年3月22日 |
52 | 瀧雲山 | 太山寺 | 平成25年10月13日 | 65 | 由霊山 | 三角寺 | 平成26年4月25日 |
平成25年(2013年)5月4日、39番札所から松尾峠を越えて、伊予の国、菩提の道場に入った。1番札所から数えて29日目になる。遍路29日目、第40番札所観自在寺から46日目の第65番札所三角寺まで、18日間を歩いた。
29日目
2013年(平成25年)5月4日(土)6:30宿毛市の旅館を立ち、延光寺を往復し、松尾峠を越え、伊予の国(愛媛県)に入った。14時ごろ、松尾大師を通過し15:20城辺町に入り、16時には観自在寺に到着した。参拝し16:40宿坊に入った。
2013年(平成25年)5月4日(土)6:30宿毛市の旅館を立ち、延光寺を往復し、松尾峠を越え、伊予の国(愛媛県)に入った。14時ごろ、松尾大師を通過し15:20城辺町に入り、16時には観自在寺に到着した。参拝し16:40宿坊に入った。山門には、その日でも宿泊できると表示されていた。
12:40松尾峠を越える。峠を超 えると伊予の国、愛媛県であっ た。 |
13:10頃、松尾峠から馬の背 を歩く。通り抜ける風が心地よ い。 |
13:40頃、長閑な山間の遍路 道を歩く。 |
14時ごろ、松尾大師を通過し た。小さな祠である。 |
16:00頃、観自在寺参道から お寺に向かった。 |
観自在寺は、第一番札所霊山寺から一番遠く「四国霊場の裏関所」とも呼ばれる名刹である。寺は、大同2年(807)平城天皇の勅願所として弘法大師が開創したものである。太子堂の前には、弘法大師が加持に使う独鈷杵(どっこしょう)等の三杵が祀られていた。宿坊近くには、芭蕉の句碑「春の夜や籠人ゆかし堂の隅」があった。
素泊まりのみであったが、食事は近くのレストランマップとお勧めの店を紹介していた。従業員方々は楽しい皆さんだった。
30日目
2013年(平成25年)5月5日(日)観自在寺の宿坊に泊まった朝である。早朝の境内は、神々しい。境内を参拝し、6:30宿坊を出立した。
歩き始めて間もなく、柏坂を越える。途中、柳水大師、清水大師を打って、この日の宿「大畑旅館」に到着した。小説「てんやわんや」の舞台になった町で、作者の獅子文六が定宿にしていたとのことである。夕食には、大きなアラ煮に驚き、鮫の酢味噌和えなどの珍しい郷土料理を美味しく頂いた。ほろ酔い気分で早々と床に着いた。
40番札所観自在寺から「てんやわんや」の舞台となった津島町へ
2013年(平成25年)5月5日(日)早朝の境内は、神々しい。大師堂の前には、独鈷杵(どっこしょう)等の三鈷杵が置かれていた。身体とともに摩ると加持が得られると記されていた。大師堂の前には、高野山奥之院の看板が掲げられていた。
6:30宿坊を立つ。近くの部屋に宿泊していた二人連れは、昨夜19時頃、入坊し、6時前には、出立していた。気力、体力に恐れ入る。正に修行といった印象である。快晴で冷気が漂い気持ちが良い。9時頃、内海診療所付近から山越えの遍路道に入った。登り口には、「坂上り二十一丁よこ八丁下り三十六」と読める石塚があった。計65丁、1丁(町)109mだから約7kmの山越えの道のようだ。
9:20柏坂と呼ばれる上りの山道に入る。途中、柳水大師、清水大師を参拝し、11:15開けた日当たりのよい場所に到着した。宇和海まで視界が広がり気持ちが良い。「つわな奥」と呼ぶらしい。
ここで、2人の歩き遍路と一緒になり、遍路談義とともに約1時間の昼食をとった。気持のよい、楽しい一時であった。14:20下山し、公民館で休憩する。GWなので遍路のために開けていたようだ。館内には、五鹿踊りの写真が展示されていた。仙台の八鹿踊りに似ているのは、江戸時代の宇和島藩が伊達のお殿様だったことに由来するらしい。東北を旅したことを懐かしく思い出した。ゴールデンウイークのせいか、途中多くの歩き遍路と出会った。
16時前には、今日の宿「大畑旅館」に到着した。歩いて旅する宿に相応しいなどと勝手に思ったりする趣のある歴史を感じる旧家であった。ご主人は、気さく愛想のいい方である。小説「てんやわんや」の舞台になった街で、作者の獅子文六が定宿にしていたとのことである。定宿と言っても当時は庄屋で、後に旅館になったようだ。泊まった部屋はどことは伝わっていないらしい。どの部屋も趣がある。食事は、大きなアラ煮に驚き、鮫の酢味噌和えなどの珍しい郷土料理を美味しく頂いた。ほろ酔い気分で早々と床に着いた。
31日目
2013年(平成25年)5月6日(月・祝) 津島町の大畑旅館から松尾峠を越え、宇和島駅までの約16kmを歩いた。途中、一昨日来、同じペースで歩いている年配の遍路と共に、馬目木大師、宇和島城観光、別格霊場6番龍光院参拝と一緒に歩いた。
遍路宿は朝が早い。この日も6:00には、朝食を出して頂き、6:30大畑旅館を出発し、7:10国道から松尾峠への山越えの遍路道に入った。「てんやわんや王国へんろみち保存協力会」が管理している標柱には、頂上1.36km、終点3.37kmと記されている。
暫く歩くと、文字が風化している石柱が目についた。「岩松町へ一里四十番へ八里一丁奥の院三里廾丁」と刻まれていた。
7:40頃、山頂に到着、遍路小屋があった。「わん屋」と称され、てんやわんや王国へんろみち保存協力会が建てたものだ。採石場を通過して国道56号線まで出た。地図には車の往来が多いので注意と記されていたが、GW休暇で、車はなく快適に下って行った。
途中、若い農家の方が走り寄ってきて、ぶっきらぼうに「よかったらどうぞ」と大きなみかんを差し出してきた。突然で戸惑ったが、ありがたく頂戴した。もう少しゆっくり話をすれば良かった。
9:30馬目木大師を参拝したところで、一昨日来、しばしば出会った年配の遍路に再び出会った。この後、宇和島城をのんびり観光した後、観自在寺の奥の院、別格6番札所龍光院に向かった。
宇和島城をのんびり観光した後、別格6番札所龍光院を参拝し、今回の5連休の区切りとした。
龍光院は、40番札所の奥の院であり、別格6番の霊場である。宇和島市の中心部に近く、古くは、宇和島城(十万石)の鬼門の鎮として、藩と領民の安泰と繁栄を守護する伊達家祈願寺とされていた。市内を望む丘陵地にある。
参道から111段の階段を上る。111という数は、人間の108の煩悩に3世(過去、現在、未来)を足した数とされている。山頂には、白亜の除災招福大観音像が建立されている。
一緒に歩いた遍路さんと龍光院を参拝し、宇和島の郷土料理の鯛飯の昼食を共にした。楽しく歩き遍路の魅力を語って頂いた。感謝、感謝! !三間町まで歩くということで宇和島駅で別れ、特急宇和海で大阪に向かった。
参道の111段の階段を上る。 |
龍光院境内案内図 |
本 堂 |
境内にある稲荷大明神 |
大師堂 |
宇和島市街 |
11:50JR宇和島駅に到着し た。宇和島は、闘牛が有名で、 駅前には像が立っていた。 |
宇和島名物の鯛めしと冷たい ビールで区切りとした。 |
32日目
2013年(平成25年)7月13日(土)前回の区切りをした宇和島市から西予市(卯之町)までの約26kmを歩いた。
天気予報では、曇りのち雨であったが、終日良い天気で熱中症を心配しながら歩いた暑い日であった。宇和島市から第41番札所龍光寺、第42番札所仏木寺を回り、歯長峠を越えて第43番札所明石寺を参拝した。
この日は、卯之町にある松屋に宿をとった。町並み保存地区に指定された卯之町の町並みの中にある老舗旅館であり、落ち着いた情緒ある旅館であった。
大阪を前夜出発した高速バスは、6:15宇和島バスセンターに予定時刻より20分早く到着した。早朝の時間でも既に蒸し暑い。熱中症を心配しながらのハードな一日になった。
6:35バスセンターを出発し、龍光院の前を通り、県道57号線を暫く歩いた。天気予報では、曇り、午後からは雨の予報であったが、快晴で暑い。途中、土讃線のキーキーというブレーキの音が聞こえる。暫しの休憩と風は心が落ち着く。
9:20には、第41番札所龍光寺の山門に到着した。
6:30宇和島バスセンターから、 この日の歩き遍路を始めた。 |
7:10頃、遍路道にあった達磨 大師 |
遍路道の途中で宇和島闘牛 の取り組み表を見つけた。 |
8:30頃、ヘンロ小屋「光満」第 21号「しんきん庵」にて一休み。 |
8:50田圃の中を通る遍路道。 とにかく暑い!! |
龍光寺への道標 |
9:10頃、鳥居のある参道を歩 く。「三間のお稲荷さん」だ。 |
9:20、第41番札所龍光寺に 到着した。 |
9:20 第41番札所龍光寺に到着した。境内には、老遍路が一人のみである。
暑さのせいか、火の消えた蝋燭が曲がっていた。「燈明も頭を垂れる暑さかな」状況が分かり難い句かもしれない。
境内には、稲荷神社があり、地元では「三間のお稲荷さん」と呼ばれている。往時の神仏習合の面影が伝わるお寺である。
納経所の方は、納経帳に手を合わせ、墨が滲まないよう袋とじのページの間に新聞紙を入れ、丁寧に記帳して頂いた。こちらも手を合わせ受け取り清々しい気持ちになった。
遍路道を尋ねると、駐車場から墓を通る山越えの道が近道とのことであった。山は険しくなく、やや短くなり、仏木寺まで3.8kmとのことだ。暫し休憩し、10:00下山42番札所に向かった。
暑さで消えた蝋燭が溶けて曲 がっていた。駄句、 「燈明も頭を垂れる暑さかな」 |
本 堂 |
大師堂 |
南予の穀倉地帯である三間 平野を見下ろすこの寺は、「三 間のお稲荷さん」と呼ばれてい る。 |
境内にある稲荷神社 |
10:00第41番札所龍光寺を後にして、第42番札所仏木寺に向かった。
龍光寺の傍らにある墓地を抜け山道に入る。登り口には、「右に四丁丘を越す」の石柱があった。1丁(町)109m、4.4km程度のようだ。遍路道は木陰になり、山中は涼しく気持ちが良い。山中の遍路道では、音がしない。蝉の声すらしない。暫く歩くと、僅かに遠くに車の音が聞こえた。心が落ち着く束の間を歩いた。
11:00には、第42番札所仏木寺に到着した。龍光寺を出て約1時間、思ったより早く着いた。たぶん、距離が短いのだろう。
11:00、第42番札所仏木寺に到着し、山門前の休憩所で身支度した。近くの駐車場ではアイスクリームを売っていた。気をそそられたが、歩く気力が無くなるように思えたので我慢することとした。平成25年の暑さ一際厳しいのか、加齢が原因か、とにかく暑さが体に堪える。
山門から階段を上ると最初に茅葺の鐘楼が目に入る。鐘を撞き、お経を唱えた。境内は広い。本堂、大師堂のほか、聖徳太子堂、大黒天などのお堂が並んでいる。
11:30下山、山門前の休憩所で身支度を解き、昼食をとり休憩した。30分程休憩すると体が楽になった。
12:30仏木寺を後にして第43番札所明石寺に向かった。四国のみちの標柱を見ると歯長峠を越えるようだ。佛木寺から歯長峠まで3.2kmだ。アスファルト道から山中に入ると涼を感じる。特に馬の背では、風が良く通り気持ちが良い。
暫く歩くと歯長峠への登り口に到着した。ここに「きついのは最初だけ、峠まで20分」と書かれた看板がある。短い階段を上ると休憩所があったので、この階段が、最初のきつい所と思ったが間違いであった。10分程歩くと鎖場に差し掛かる。きついのは、最初だけではなく、7,8分程の鎖場が相当にきつかった。息も絶え絶えで上った。
13:30、歯長峠に到着した。祠が一つあり、周りは蒸し暑いが、中はひんやりしていた。山中には、鶯の声が響いていた。下るに従い暑さが増してくる。標高差かと思う。
14:20川辺の歯長地蔵の近くにある休憩所で休憩。足元のアスファルトからも照りつけ、とにかく暑い!! 傍らには「遍路の墓」と記された小さな祠があった。墓には、文政の文字が読み取れた。その時代には、山中で行き倒れになる遍路がいたのであろう。
歯長地蔵からは県道を歩き、16:10第43番札所明石寺参道に到着した。
16:20第43番札所明石寺の山門に到着した。本来は「あげいしじ」と呼ばれ、土地の古老は、今でも親しみを込めて「あげいしさん」「あげしさん」と呼んでいるようだ。
縁起によれば、6世紀、欽明天皇の勅願により、円手行者が唐からの千手観音菩薩像を祀るため、この地に七堂伽藍を建立して開創したのが起源とされている。弘仁13年(822)には弘法大師がこの地を訪ね、勅命により諸堂を再興した。その後、鎌倉時代になってから再び荒れ果てた寺を修復した源頼朝に由来し、山号を現光山から「源光山」に改めたようだ。
16:40納経所で記帳して頂いた。暑さのせいか、金剛杖を忘れていた。呼びかけられるまで気がつかなかった。また、納経所前では、声をかけられ、「今日は盆の入りだから日が良い」「この辺りは、新盆だから1カ月あとだけど」などと世間話をしながら暫し休憩した。
16:50第43番札所明石寺を下山した。山門前から山道に入る遍路道に向かった。地図では、山越えで近くなるはずである。途中、道に迷ったと思ったが、17:15松屋旅館に到着した。
卯之町は、内子町に次いで愛媛県で2番目に指定された町並み保存地区とのことだ。この日の宿とした松屋旅館は、古い町並みの一角をなす情緒あふれる旅館である。江戸中期に創業し、当時から守ってきた糠床による「お漬物」が有名である。
明石寺の門前から山越えの 遍路道に入る。近道になるよう だ。 |
山中の遍路道 |
山中にある東屋風の休憩所 |
200年の時を経た卯之町の街 並み。町並み保存地区に指定 されている。 |
旧家の並ぶ町並みの一部に なっている文化元年築の旅館。 この日は、ここに宿を取った。 |
松屋旅館に宿泊した方々 |
旅館の庭にある句碑 この宿の庭木の茂りなつかしき |
旅館の母屋に向かう小路 |
33日目
2013年(平成25年)7月14日(日)、歩き遍路通算33日目になる。この日は、早朝から蒸し暑い日であった。7時過ぎに卯之町の松屋旅館を出発し、県道30号線、国道56号線のアスファルトからの照り返しに耐えながら歩くこととなった。途中、鳥坂峠を越え、札掛大師を参拝してJR伊予大洲駅までの約23kmを歩いた。
2013年(平成25年)7月14日(日)朝、窓を開ける。田舎の涼しい風を期待したのだが、蒸し暑い空気が入り込んできた。
7時過ぎに松屋旅館を出発し卯之町の町並みを歩く。町は、一斉清掃の日で多くの方々が清掃をしていた。挨拶をしながら町の中を通りぬけた。間もなく、県道30号線、国道56号線に出た。アスファルトからの照り返しが暑い。
途中、静岡からの遍路と会い、札掛大師まで度々出会った。今回出会った歩き遍路は彼一人のみであった。
9時半ごろ、国道を外れて峠越えの遍路道に向う。標識には、「峠道5.5km、約60分」「56号(トンネル利用)2.1km25分」と記載されていた。少し歩くと、山道への登り口から鳥坂番所跡を右に見て上る。風が涼しく気持ちが良い。アスファルト道に比べ森の中は良い。10時過ぎには、鳥坂峠に到着した。峠で一休みし、山中の日天社を参拝し下山した。
山中の遍路道を通り、札掛大師まで歩くつもりだったが、道に迷い、30分程で国道56号線に出てしまった。国道から、「札掛大師」の小さな看板に従い町中を歩くがここでも迷った。やっと出会った人に道を聞き、12時頃に札掛大師を参拝した。この札掛大師の門前で先の遍路と再び出会った。遍路道を迷わずに来たようだ。
近くで草刈りをしていた地元の方から話を聞くと廃寺になっていて住職はいないようだ。地元の人が寄進した鐘も誰かが持って行ってしまったと嘆いていた。出石寺に再建をお願いしているらしい。山門には、四国番外霊場札掛佛陀懸寺と記されていた。
再び、国道56号線に戻り、灼熱のアスファルトを踏みしめてJR伊予大洲駅まで歩いた。13時過ぎには、肱川の公園で昼食休憩をとり、14時には、伊予大洲駅に到着した。37,742歩、23kmほど歩いたようだ。
特急は、14:45、駅前で更衣をし、待合室でビールをまず1本飲み干した。美味い!!三連休の中日のためか、車内は空席が多く、のんびり、ゆったり帰ることができた。
2013年(平成25年)9月14日(土))、歩き遍路通算34日目になる。前日の夜行バスに乗り、5:30伊予大洲バス営業所に到着した。朝から蒸し暑い日だった。平成25年は記録的な暑さだった。予想はしていたが、何か秋の気配を感じる。この日は、愛媛県大洲市から内子町の民宿まで歩いた。途中、内子座や八日市・護国の街並み、曽我十郎神社を巡り民宿来楽苦までの約23kmを歩いた。図の切れ目はGPSの電池切れである。
2013年(平成25年)9月14日(土)前日の夜行バスに乗り、5:30伊予大洲バス営業所に到着した。朝から蒸し暑い日だった。待合室で朝食をとり、歩き支度を整えると、蚊と思ったら糸トンボが飛んでいた。季節は、秋になっている。
6:00営業所の職員が出勤してきた。挨拶を交わす。内子まで歩いて3時間で行けるとのこと。今日は暑くなるのでバテナイようにと励まされ、6:10歩き始めた。40分ほどで番外札所の十夜ヶ橋永徳寺に到着した。既に年配の女性が熱心にお参りしている。7時になると本堂の扉が開き、大師堂から読経が聞こえてきた。暫し境内で太鼓の音と読経の中に佇んだ。何か気分がすっきりする。
永徳寺の横の川に架かる橋の下、国道大師野宿の霊場がある。歩き遍路が橋の上で杖をつくことを忌む所縁の場所である。「弘法大師御野宿所霊場十夜ヶ橋」を参拝した。しばらく矢落川に沿って国道56号線を歩く。車が多く、歩いていても楽しくない。よく地図を見ると十夜ヶ橋で左に逸れる遍路道があったようだ。
8:40には内子町に入った。山中に分け入ると、せせらぎ、蝉の声、虫の音、いつしか車の音は聞こえなくなっていた。道端は、彼岸花が咲いている。景色は、秋のようだ。山中で、歩き遍路の方が追いついてきた。一日30km~40kmを歩く健脚の方である。三連休を利用した遍路の方で、一日短い日数で更に足を伸ばすようだ。遍路5回目のベテランの方である。暫く、会話を楽しみながら一緒に歩いた。
内子座で同道の方と分れ、内子座を観光した後、八日市護国町並み保存地区を散策しながら通り抜けることにした。街並みを抜けたところで道に迷い、土産物店の老女に道を聞く。親切に細かく教えて頂いたが、詳しすぎて覚えきれない。途中2,3度道を尋ねながら、10:50田中橋交差点に着いた。地図の遍路道からは、かなり東に来ているようだ。田中橋を渡り、トンネルを抜けると国道379号に突き当たる。
暫く、小田川に沿って国道379号線を久万高原町に向かって歩いた。澄んだ綺麗な水である。所々には、深い緑の淵も見える。
13時半ごろから新成屋橋休憩所で時間調整の休憩をとる。休憩所では、地元の76歳になる老人と暫し話し込む。この地区の30人から60人の皆さんで山登りをしているという。年に1回、3,000m級の山も上るとか。この人数、年齢で登りきるのは恐れ入る。
14時40分頃、曽我十郎首塚の看板があったので向かうこととした。徒歩20分と書いてある。早い時間でちょうど良かった。登り口には立派な鳥居があり、曽我十郎神社と記されている。たぶん、仇打ちで有名な曽我兄弟を祀った神社であろう。途中道を間違えたが20分で十郎神社に到着した。小さな祠があり、近くには五郎の祠もある。参拝の後、楽水大師、千人宿(千人宿泊記念大師堂)を経由し16時過ぎには民宿宿来楽に到着した。代々の豆腐屋は息子に譲り、民宿をやっているとのことだ。食事は豆腐三昧、木綿豆腐、絹豆腐、湯葉、蒟蒻、田楽・・・。台風18号が気になる。何とかなりそうだが、雨模様だ。21:00には就寝。
35日目
2013年(平成25年)9月15日(日)京都地方に大きな被害をもたらした台風18号接近のなか、内子町の民宿から下坂場峠経由鴇田峠歩きルートで第44番札所大寶寺まで歩いた。当初、大寶寺の宿坊に泊まりたいと思っていたが、宿泊できなかったので久万高原帳の民宿に宿泊した。
2013年(平成25年)9月15日(日)朝起きると、宿近くの小川のせせらぎを雨かと思った。まだ暗いが、雨は、降っていないようだ。台風18号は、予報より近い経路をたどっているようだ。外が明るくなってくるとともに、雨が降りだした。
7時前に朝食を済ませ、7:40には宿を出た。雨が降っているので雨合羽を着ての出発となった。民宿のご主人によれば、遍路地図にない道があり、迷う遍路が多い場所があるという。迷ったら上がれと言っていた。詳細な道筋や目印を聞いたが覚えきれない。年を感じる。
8時20分、へんろ小屋内子第三十八号を通過した。シャワーもある立派なものだ。大寶寺へ19.7kmの看板がある。間もなく田渡川に沿って歩く。美しい渓流である。途中、地元の人に声をかけられる。昨夜の宿を聞かれ、「来楽苦なら、豆腐をたくさん食べたバイ」と言われた。
9時50分、県道42号線の細いアスファルト道に入る。道は上っている。「下坂場峠鴇田(ひわだ)峠歩きルート」13.4kmの標識があった。1時間ほど歩くと三嶋神社に出た。古さを感じる神社である。神社を右に上っていく道もあるようだ。ここは、直進する。三嶋神社から約1時間で県道42号線の下坂場峠に着いた。この峠から久万高原町に入る。
12時20分ごろ、町中で分岐点出でる。地図を見ていると軽四のご婦人が方向を教えてくれた。分岐点には「当分の間通行止め」の標識が立ててある。戸惑っていると、近所の方が駆け寄って来てくれた。車は駄目だが、遍路道は大丈夫と言ってくれた。大いに助かった。
13時10分には鴇田峠に到着した。途中、雨の中、傘をさして歩く遍路の方に出会った。この方を颯爽と追い越したと思ったら、写真を撮ったりしていると追い越される。ゆっくり歩いても、ばたばた歩いても着実に歩く方が前を行くようだ。人生訓のような場面だった。
14時10分には、久万郵便局前の大通りに出た。大通りを渡り直進すると山門(総門)を通過して、大寶寺を参拝した。
大寶寺の宿坊は、予約できなかったので、久万高原町の中心街に戻り、16時前には、民宿笛が滝に到着した。食堂の前には、雉料理の看板が掲げられていた。女将から、岩間寺の打戻は、多くの歩き遍路がやっていると聞いたので、連泊することとした。
18時から、たっぷり3時間の夕食をとった。雉料理を食べながら、秋田、広島からの歩き遍路と一緒に遍路談義やお国自慢に花が咲いた。毎年、歩き遍路をして7回目の方によれば、一度結願すると何度もまわるら遍路が多く、「お四国病」と言うらしい。両人とも、この日に岩間寺を打ち戻ったとのこと。余裕と聞いて安心して酒が進んだ。
この日は、23時に就寝。この辺りも風の音が大きくなってきた。台風18号の影響と思われる。TVでは、京都に大きな雨被害を与え、桂川が決壊したようだ。
14時20分、大寶寺の山門(総門)を通過する。かっての広大な寺領を窺い知ることができた。大寶寺は、大寶間に創建された寺でその名がついたようだ。当時は、辺り一帯が広大な寺領で、岩屋寺は、大寶寺の奥の院であったと聞いた。
20分ほど歩くと大宝寺の山門に到着した。雨の為か参拝者は少ない。車の行き来は多かったのだが。後でわかったが、駐車場が、山門(仁王門)の上にあったためだ。
境内に入り、最初の鐘つきを失敗する。撞木を振ってつこうとしたら、振っている間に当たってしまった。小さな音、スカ引いた感じで気持ちが乗らない。二度撞きは、ダメとのことでスカの音の中で読経した。この寺には、大師堂(御影堂)の前にも鐘楼があったので、ここでは、大きく一回撞いた。納経所の方から岩間寺への遍路道を聞いて下山した。
36日目
2013年(平成25年)9月16日(月・祝)久万高原町の民宿に荷の一部を預け、第45番札所岩間寺を打ち戻った。八丁坂の遍路道を通り、11時前には岩屋寺に到着した。岩間寺では、お逼割行場を参拝するなど1時間30分滞在し、県道42号線を打ち戻って16時には久万高原町の民宿に戻った。
第45番札所 海岸山 岩屋寺 (久万高原町の民宿から打ち戻り)
2013年(平成25年)9月16日(月・祝)朝起きると雨は止んでいるようだが風は強そうだ。台風18号の影響である。関西には、特別警報が出ている。
6:50民宿笛ヶ滝を出発した。連泊で背中の荷物がかなり軽くなっている。風も弱くなってきた。30分ほどで大寶寺を通過する。本堂に向かう階段の下で一礼して山中の遍路道に入っていった。昨日、内子から時々出会ったタイ在住の歩き遍路の方(日本人)と会う。笛ヶ滝に宿泊し、早くに参拝を済ませたようだ。
途中、遍路道の一部が崩落している。ボーと歩いていると危ない。大きな崩落もあった。杉の木も4,5本流されている。雨の中歩いていたら大変だ。7:40頃、若い遍路に追い越された。野宿で歩いているとのこと。「千葉から来ました」と書いた看板をぶら下げて歩いている。野宿の時に掲示するのだろう。峠を越える頃には、風は弱くなって心地良さを感じる。
9時過ぎには、八丁坂入口休憩地に到着した。八丁坂「昔の人は、急なこの総長2,800mの坂道を修行へのへんろ道として選んだ」と看板に記されていた。30分ほど上ると八丁坂峠に到着した。峠では、千葉の若者と傘をさしたタイ在住の方と再会した。
10:20不動尊行場を通過する。白山大権現、逼割(せりわり)行場がある。お寺に向かって下りる。10:40岩屋寺に到着した。仁王門は、山側(お寺の外側)に向かって構えている。山中のへんろ道がお寺への参道のようだ。大寶寺の奥の院であったと聞いたことが頷ける。
岩屋寺は、弘仁6年(815年)弘法大師42歳の開基と伝えられている。境内は、多くの参拝者で賑わっていた。お堂の右には、法華仙人の行場跡が残り、梯子を上ると行場に行くことができる。
11時半頃、下山しようと思っていたところ、途中から同行した千葉の若い遍路が、逼割の行場に行くと鍵を持っていた。一緒に行かないかと誘われ、時間も早いことから行場に行くことにした。若者に背中を押されたのも縁である。納経所で逼割の行場に行くことを申し込むと300円を納め三十六童子の納札を頂いた。逼割行場に行く間の地蔵に納めながら上っていく。納札は、36枚以上あり、行場からお寺に戻るまで1時間30分を要した。逼割行場では、岩の割れ目を通る鎖場や梯子を上り、頂上には、白山大権現の祠があった。
13:20下山する。山門付近で若者から「波の音聞こえませんか」と問われた。確かに、波の音がする。山中なので木々の音と思われるが波のように聞こえる。「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を波にたとえむ」と詠まれ海岸山の由来になっている。若い遍路から言われて気付いた。年と共に感性も鈍くなってきたのだろうか。
打ち戻りは、山中に入らず県道42号線を歩くこととした。16時過ぎには、国道33号線に突き当たり、16:10民宿笛が滝に到着した。この日の夕食は、「雉うどん」などの地料理がたくさん。食べ過ぎた。
37日目
2013年(平成25年)9月17日(火)7時前には、久万高原町の民宿を出発し、三坂峠を下り、網掛大師を参拝して第46番札所浄瑠璃寺までを歩いた。この日は、ここで区切りとして、バスでJR松山駅まで行き帰阪した。
2013年(平成25年)9月17日(火)6:50民宿を出て松山市内に向かった。息が白い。肌寒さを感じる。道には、コスモスが咲き、秋の気配である。
9時前には、三坂峠の遍路道に入った。かっては「久万街道」として賑わっていたようだ。松山市街が一望できたので、カメラを構えて歩いていると排水溝に足を取られ転倒した。海の島々まで見える絶景であった。周りは、静かである。時々、鳥の声が聞こえるが風や木々のざわめきもない。
10時頃には、民家が多くなってきた。遍路道の脇には、遍路の墓があった。「天保十年」の表示が見える。途中、10時半ごろ、網掛大師参拝する。網のような文様がくっきり見える網掛石がある。
11時過ぎには、浄瑠璃寺に到着した。
山門の入口には、「永き日や衛門三郎浄るり寺」と彫られた子規の句碑がある。浄瑠璃寺は、行基菩薩が和銅元年に布教のためにこの地を訪れ、仏法を修行する適地として伽藍を建立したのが始まりとされている。
本堂のすぐ横には、各地の蓮を集めた弁天池がある。中国福州開元寺からのものもあった。境内には、投句箱が設けられていたが、捻っても出てこない。
納経所には、ご婦人が二人、一人に聞くと、二人からあれやこれやと教えて頂いた。心が和む一時であった。納経所でバスを聞くと12:20頃のバスで森松に行き、そこで松山市駅行きに乗り換えれば良いとのこと。今回は、ここで区切りとすることにした。
13時半には、松山駅に到着した。駅前の子規の句碑、「春や昔十五万石の城下哉」を見ながら、駅売りの暖かい「じゃこてん」とビールが美味かった。
11時過ぎには、第46番浄瑠璃寺に着いた。 |
本 堂 |
大師堂 |
境内には、「鎮魂の皿」で建てた塔があった。 |
弁天池には、18種類の蓮が集められている。 |
佛の足跡 |
浄瑠璃寺境内にあった仏手花判、佛の指紋とか。 |
樹齢千年を超えるという大師お加持の霊木 |
JR松山駅に13時半に到着した。 |
松山駅前にあった正岡の句碑。 “春や昔十五万石の城下哉” |
名物の「じゃこてん」とビールで良い気分。 |
38日目
2013年(平成25年)10月12日(土)前回の休暇で区切りとした第46番浄瑠璃寺から打ち始めた。10月の半ばと言うのに前日は観測史上最も遅い夏日になった。この日は、空気が入れ替わったかのように歩きやすい天気になった。
第46番浄瑠璃寺から歩き始め、第47番八坂寺から第51番石手寺までの5か寺を参拝した後、山頭火の一草庵に立ち寄ってJR三津浜駅までを歩いた。
8時過ぎ、浄瑠璃寺の山門から第47番札所八坂寺に向かった。約20分で第47番札所八坂寺に到着した。八坂寺は、役行者小角が開基と伝えられ、大宝元年(701年)文武天皇の勅願により堂塔を建立したという1,300年の歴史を有する古い寺である。寺は山の中腹にあり、8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名の由来になっている。
境内には、地獄の道、極楽の道、万躰阿弥陀仏などがあり、尖った石が敷き詰められた地獄の道を通り境内を散策した。駐車場の近くには、通夜堂がある。
八坂寺で駄句を2句投句
八坂寺や見渡す先の稲の原
秋空に光る甍の八坂寺
9時、下山した。
八坂寺への道標 |
8:20第46番八坂寺に到着した。 |
山門の天井画 |
境内にあった地蔵 |
本 堂 |
大師堂 |
地獄の道、地獄絵図があり、尖った石が敷き詰められていた。極楽の道もある。 |
いやさか不動尊。平成17年に建立された。 |
大きな通夜堂があった。 |
9:00下山した。 |
9:20頃、別格9番文殊院に到着した。河野衛門三郎の菩提所になっている。本堂には、四国遍路開祖発祥地と記されていた。
納経所の方によれば、河野衛門三郎の住居跡にお寺を建立したとのことである。納経所の中には、衛門三郎の物語の絵図が掲げられていた。
文殊院から20分ほど歩くと札始大師堂がある。弘法大師の後を追った遍路姿の衛門三郎が最初に国所姓名を記してお堂に納めたと言われている。
9:20第47番八坂寺から20分ほどで別格第9番文殊院に到着した。 |
文殊院の本堂。「河野衛門三郎菩提所」「四国遍路開祖発祥地」と掲げられていた。 |
鐘楼堂 |
鐘楼堂に掲げられていた「衛門三郎由来の図」 |
札始大師堂 |
9時には八坂寺を下山し西林寺に向かった。途中、文殊院、札始大師堂を参拝し、10時半頃には到着した。山門の前には小川が流れていて、遍路道から小さな橋を渡り入山した。
西林寺は、天平13年(741年)行基が勅願により一宮別当寺として堂宇を建立したのが始まりとされている。ここで、広島からの歩き遍路と出会った。
11時、番西林寺を下山し第49番札所浄土寺に向かった。途中、自転車に乗った年配の方から「御苦労さん。えらいの~~」と声をかけられた。何か、気が抜けるような、有難いような雰囲気になった。
40分ほど歩くと、第49番浄土寺の山門に到着した。お寺は、縁起によると天平勝宝年間に女帝・孝謙天皇の勅願により、行基が彫造した釈迦如来像を本尊として祀り開創された。本堂等は国の重要文化財に指定されている。有名な「空也上人立像」(念仏を唱える口から六体の阿弥陀が出ている有名な像)が所蔵されている。以前、京都の六波羅蜜寺で見た空也上人像と同じ形の像である。
12時過ぎには下山し、第50番繁多時に向かった。
12時過ぎに第49番札所浄土寺から50分ほど歩いて第50番繁多寺山門に到着した。繁多寺は高台にあり、松山市街から瀬戸内海までが一望できる。風が心地よい。のどかな風情の境内周辺は、美しい自然が今も残っている。
縁起によると、天平勝宝年間に孝謙天皇の勅願により、行基が薬師如来像を彫造して建立したと伝えられている。この時、天皇から数流の旗を賜ったことから「旗多寺」と言われ、後に「繁多寺」に転じたという。広大な境内が印象的である。
13時過ぎに繁多寺を下山し、石手寺に向かった。石手寺の手前の川には、「へんろ橋」が架かっている。40分ほど歩くと第51番石手寺に到着した。
13:50入山、参道には多くの門前店があった。佛の教えを世に観じる(とりつぐ)観世音菩薩のある仕合せの鐘を突く。何か不思議な音色であった。
寺号の由来になった衛門三郎の石は講堂に祀られているようだ。境内には国宝の仁王門のほか6つの国の重要文化財があり、荘厳な雰囲気を醸し出している。近くに道後温泉もあり多くの参拝者で賑わっていた。
縁起によると、神亀5年(728年)に伊予の豪族が熊野12社権現を祀り勅願所としたのが始まりとされている。「安養寺」から「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892年)の右衛門三郎再来の伝説によるものだ。
14:40下山した。20分ほど歩くと道後温泉本館の前に差し掛かる。大勢の人である。
15時半から30分ほど一草庵を散策した。自由律俳人、種田山頭火の終焉の場所である。
おちついて死ねさうな草萌ゆる
と詠んでいる。思ったより広い建物である。地元のボランティア方が案内してくれた。途中、中学生と思しき若者が入ってきた。案内の方によれば、若い方や女性がよく訪れるという。近くの柿木には実が沢山ついている。持っていっても良いと言われたが、眺めるだけにした。暫し、山頭火の話をして過ごした。
この日は、JR三津浜駅まで歩き、松山駅近くのビジネスホテルに宿泊した。
39日目
2013年(平成25年)10月13日(日)松山駅前の宿からJRで三津浜駅まで行き、歩いて太山寺、圓明寺を参拝しJR浅海駅まで歩いた。浅海駅からは、JRで伊予北条駅まで戻り北条の民宿に泊まってこの日を終えた。この日は、北条の祭りで町は賑わっていた。
この日は、松山駅前に宿をとったので、JRで松山駅から三津浜駅に向かった。7時前には、三津浜駅から歩き始めた。朝の歩行は涼しく気持ちが良い。夏の服装では、肌寒いほどだった。
7時半過ぎには、第52番太山寺の一の門に到着した。二の門(仁王門)前で身支度し、7時40分入山した。ここから、本堂へは、570m、納経所から250m上る標識があった。
8時前、韋駄天が守護している三の門に到着した。本堂は国宝になっている。太山寺は、天平11年(739年)に聖武天皇の勅願をうけて、僧行基が開いたという。隆盛時には、七堂伽藍と66坊を数えるほどあったという。また、この寺の開創説話には、炭焼き小五郎にちなむ伝承がある。
境内には、堂宇も多く歴史を感じる。本堂の裏手に奥の院に通じる道があり、眺望が良さそうなので途中まで上ってみた。身代わり観音がある。本堂から奥の院に向かう高台で、地元の方から、いろいろな話を伺った。国宝の本堂は、間口7間×奥行9間で奥行きの方が長く建てられている。全国的にも数少ない土壇という。祭壇が土盛りになっている珍しい構造のようだ。本堂の屋根は、葺きかえられているが、旧いものは正面に配置し、新しいものは裏面に配置したとのことだ。
納経所から本堂の間に幾つかの古民家がある。話によれば、以前は、遍路宿であったとのこと。今は、全て廃業している。帰りに、近くまで案内して下さったが、旅館の名残がある。9時前に下山し、第53番円明寺に向かった。
第52番太山寺を9時前に下山し、第53番円明寺に向かった。約2km、20分ほどで円明寺に到着した。
仁王門から中門、本堂へと小さくまとまった感じの市井の寺である。かっては、七堂伽藍を備えた大寺であったという。円明寺は、天平勝宝元年(749年)、聖武天皇の勅願により、僧行基が本尊の阿弥陀如来像、観世音菩薩像、勢至菩薩像を安置しとして建立したのが始まりとされている。
境内には、キリシタンの灯篭がある。風化しているが十字架のように見える。本堂の右上・鴨居には、左甚五郎作と言われている5mほどの龍の彫り物がある。行いの悪い人が見ると目が光ると言われている。
10時、下山し、お寺の西側から海に向かって歩き出した。
午前10時、第53番札所円明寺を下山し今治に向かった。遍路地図に従い、海側のコースを歩くこととした。快晴、風がやや強くなってきたが、暑さも和らぎ心地よい。
30分ほど歩くと海が見えてきた。瀬戸内海の島々も見える。海には白波が立っている。風が強いようだ。左手で笠を抑え、右手に杖を持ち、肘を張ると、白衣が風にたなびき勇ましく見える。自分の影を見て、ここで一句。
秋風に白衣なびかせ山頭火
暫くの間、国道347号線を海岸に沿って歩く。潮の香りを感じる。11時過ぎには、小川大師堂がある粟井坂(淡井坂)を越えた。
午後1時頃、早坂暁の花へんろの舞台となった伊予北条市内を通過する。北条のお祭りである。途中、子供神輿と出会った。グループホームの前に子供たちが神輿を置くと、多くの老人が車いすや看護師の介助を得ながら建物から出て来た。にこにこと、楽しみにしているようだ。
午後1時半、鎌大師に到着した。弘法大師が、この地に悪疫が流行しているのを哀れんで鎌で彫った大師像を与えたことに由来している。この後、峠を越えて、15時前には、JR浅海(あさなみ)駅に到着した。
JR浅海駅の待合室で、ここで区切るか一駅歩くか迷っていると、老人の方から声をかけられた。「次の菊間までは、ちょっとある。歩いて1時間程かかる。」とのことで、この日は、ここで区切ることとした。JRで伊予北条まで戻り、駅近くに宿をとった。町は北条祭りで遅くまで賑わっていた。
10:30瀬戸内の海岸に出でた。 |
海岸に沿った道を歩く。 |
11:10粟井坂新道にある小川大師堂を参拝した。 |
北条祭、グループホーム前の子供神輿。 |
北条祭の神輿。市内を終日引き回す。 |
13:30鎌大師を参拝した。 |
14:10遍路道からの眺望。 |
14:30遍路道の傍らにあった六地蔵。 |
地元で「おじのっさん」と呼ばれている大師堂。 |
15:00JR浅見駅に到着し、この日の区切りとした。 |
40日目
歩き遍路40日目、2013年(平成25年)10月14日(月祝)宿泊地の伊予北条駅からJRに乗車し、前日の区切りとなった浅見駅から行き歩き始めた。7:30に浅見駅を出て、1時間余りで瓦の町、菊間町にある遍照院に到着した。遍照院から第54番延命寺、第55番南光坊を参拝し、今回は、今治駅で区切りとした。
歩き遍路40日目、2013年(平成25年)10月14日(月祝)7時前には、伊予北条市の旅館太田屋を女将に見送られて出立した。伊予北条駅から前日の区切りとした浅見駅までJRで向かった。車内には、何人かの遍路がいた。駅の待合室で身支度をし、7時半には歩き始めた。風が本日も強く、風に乗って祭りの太鼓の音が聞こえてきた。
暫く、国道196号線を海岸に沿って歩く。8時半頃、瓦の産地で多くの瓦工場が続く菊間町を歩く。菊間瓦として有名なようだ。
9時前には、遍照院を参拝した。瓦の産地らしく、山門では、仁王像の代わりに大きな鬼瓦が守護していた。遍照院は、弘仁6年(815年)弘法大師が42歳の時、四国御巡錫の折、自らの42歳の厄除けと末代緒人厄除けのために、御自身の御尊像をきざみ、もってここに本尊として安置し、厄除けの秘法を残されたと伝えられる。「やくよけ大師」として信仰を集めている。
9時半頃、正面に太陽石油のコンビナートが見えて来た。間もなく、青木大師に到着し参拝した。人が住んでいるような立派な通夜堂が有った。
12時半には、第54番札所延命寺の参道に入った。
12時ごろ、「延命寺4.1km」の石柱を過ぎたところで逆打ち遍路と出会った。ゆっくりだが、別格も回っているとのことだ。12時半には、第54番延命寺の山門(仁王門)に到着した。山門で道に迷っていた老遍路に出会う。次に向かう道が見つからないようだ。一国参りをしているという。iPhone?かなにかに向かって「55番札所」と怒鳴っていた。機械に寺名を告げると自動で音声案内するという。便利なようでも、何か滑稽であった。
12:40入山、山門を抜けると、直ぐに薬師堂が有り、茶店にも見える納経所があった。正面の階段を上ると本堂があり、大師堂は、更に階段を左に上った。大師堂の前には「ごりやく錫杖」があり願い事を込めて回した。
延命寺は、今治の市街地から西北へ6kmほどのところに、山号にもなっている標高244mの近見山の山頂一帯に七堂伽藍を構え、100坊を数えていたと伝えられる。
縁起によると、養老四年に聖武天皇(在位724~49)の勅願により、僧行基菩薩が開創し、弘仁年間(810~24)になって、弘法大師が嵯峨天皇の命をうけ、勅願所としたという。当時は「圓明寺」であり、明治まで続いたが、同じ寺名の第53番圓明寺との間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた「延命寺」に改めたようだ。
12:30延命寺の仁王門に到着した。 |
山 門 |
境 内 |
本 堂 |
大師堂 |
13時過ぎ、第54番延命寺を下山し南光坊に向かった。14時前には、忠霊塔(戦没者の慰霊塔)があり公園を通過した。
14時10分ごろ、第55番札所南光坊山門に到着した。荘厳な山門には、東西南北の四方を守護する持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王が構えていた。山門は、鐘門であり、綱を引くと鐘が撞ける。境内で伊予北条の宿で一緒だった歩き遍路と出会った。足を痛めているようで、明日は、皮膚科に行くと言っていた。
堂宇の配置を見ると、本堂が北向きで大師堂が南向きで相対している。納経所で珍しい配置の謂れを聞こう思っていたが忘れてしまった。何処かで聞いてみたい。
縁起によると、大宝3年、伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇の勅願により開創し、和銅元年(708)に僧行基菩薩、さらに、弘法大師が再興して霊場に定められたようだ。
15時前には下山し、隣接している大山祇神社を参拝し、今治駅から大阪に帰った。当初の計画では、この日は、仙遊寺の宿坊に宿泊したいと思っていたが、台風26号による風雨予報のため、一日切り上げて帰ることとした。
歩き遍路再開の前日、2013年(平成25年)12月20日(金)高速バスで大阪から今治に向かった。荷は、10Kg、裸体重+12Kgになった。心配性なのか荷が多くなってしまう。翌12月21日(土)6:40今治駅着した。駅には、3名程の歩きと思われる遍路がいた。
7時には、今治駅を歩きだし、40分ほど歩いて第56番泰山寺、9:00には、第57番栄福寺、10:30には第58番仙遊寺を参拝した。標高250mの山の中腹にある仙遊寺から約10kmを歩き、12:50には国分寺を参拝した。この日は、JR伊予三芳駅に近い旅館に宿泊した。16:20には旅館に到着した。
前日の夜行バスで大阪から今治に移動し、7時、今治駅から第56番札所泰山寺に向かった。辺りはまだ暗く方向が分からない。地図とバス乗り場の位置関係から判断し出発した。雨の天気予報だったが、晴れ、風も穏やかである。思ったほど寒くない。
7:15今治西高校を通過する。地図で確認していると、軽トラの老人から泰山寺なら真っ直ぐ行けばよいと声をかけられた。地図を見ているだけで多くの方から道を示して頂ける。ありがたいものだ。
20分程で泰山寺に着いた。まだ新しい立派な石垣のあるお寺である。境内に入り、鐘を撞く。鐘が良いのか撞き方が良かったのか、般若心経を唱える間、心地よい余韻が残っていた。境内に遍路はいないが、地元のお年寄りが3人、4人と訪れていた。
泰山寺は、弘法大師が弘仁6年この地を訪れ、水難を起こす悪霊のたたりを鎮め、村人たちと堤防を築いて治水祈願したのが泰山寺の始まりとされている。その後、淳和天皇(在位823〜33)の勅願所となり、七堂伽藍を備えて、塔頭に地蔵坊、不動坊など十坊を構えて栄えた。だが度重なる兵火により寺の規模は縮小し、金輪山の山頂にあった寺を大師お手植えの「不忘の松」があった山麓に移したと伝えられている。
8時過ぎに下山し5分ほどで奥の院龍泉寺に立ち寄った。左官職人が作った鏝絵(こてえ)が有名なようだ。
8時過ぎに第56番泰山寺を下山し、鏝絵(こてえ)が有名な泰山寺奥の院龍泉寺に立ち寄った後、栄福寺に向かった。雲が出て来た。風も出てきて寒くなってきた。
9時には、第57番札所栄福寺に到着した。立派な本堂が有り、本堂の両脇には2つの仏足跡が並んでいた。栄福寺は、嵯峨天皇(在位809〜23)の勅願により、弘法大師がこの地を訪れ、海神を供養し山頂に堂宇を建立したことが始まりとされている。そのことから、海陸安全、福寿増長の祈願寺として古くから信仰されている。
納経所に「せとうちバス横峰寺運休のお知らせ」が貼ってあった。12/20~2/28までバスを運休するという。歩いて大丈夫か心配になってきた。納経所の方によれば、遍路道が閉鎖になったとは聞いていないが、近くの国分寺で聞いた方が良いと言われた。不安になってきた。9時半には下山し次に向かった。
8:30遍路道の地蔵と標柱。民家が守っている。 |
8:40四国遍路無縁墓地。江戸時代の銘も見られた。 |
ヘンロ小屋・今泊・日高・ 第41号 |
8:50頃の遍路道 |
栄福寺の参道 |
9:00第57番栄福寺に着いた。 |
お願い地蔵。多くを願い過ぎたかも。 |
境 内 |
本 堂 |
大師堂 |
9時半、栄福寺を下山した。9:50犬塚池の湖畔を歩く。大きな溜池であるが水位が低い。水不足なのだろうか。
10時を過ぎた頃、仙遊寺参道に入る。「お遍路の心の旅の憩い寺」の句碑が有った。10時半前、仙遊寺近くの東屋で更衣をした。防寒のジャンパーを脱いで歩いた汗びっしょりであった。
10時半、第58番札所仙遊寺の仁王門に到着した。立派な門である。仁王門から更に階段が続く。10分ほど歩いて境内に到着した。途中、弘法大師が四国霊場開創の折に、病に苦しむ人々を救済しようと掘った井戸、御加持水があった。一気に登ったせいか心臓がバクバク言っている。本堂の横には立派な宿坊が有る。遠くから見えた山の中腹の建物はこれであった。天然温泉の表示が有り、人気の宿坊と聞く。当日宿泊可能の表示が有った。雪がちらほら降ってきた。境内は、標高250mを示していた。駐車場がお寺の近くにある。
創建は天智天皇(在位668〜71)の勅願により、伊予の国主が創建したのが始まりとされている。後に、阿坊仙人と称する僧が40年間仙人のような生活をし、雲のように姿を消したことから仙遊寺と言われているようになった。
11時過ぎ境内から仁王門に向かった。途中、30人程の団体が上がってきた。暫くして、山の上から鐘の音が幾度も聞こえて来た。10分ほどで仁王門に到着した。下りは足に堪える。仁王門のベンチにあったお接待のみかんを一つ頂く。のどの渇きか美味い。小休憩の後、下山した。
11時半、仙遊寺を下山し、国分寺に向かった。12時前、山を下り山里に入るとみかん農家の女性から「獲りたてなので酸いかも」と声をかけられ、みかんを頂いた。手を合わせお礼を言うと相手も手を合わせてくださった。有りがたい気持ちになる。
13時前には、第59番札所国分寺に到着した。鐘は撞けない。立入禁止の上、撞く紐が無い。境内には、薬師の壺、握手修行大師などがあった。
国分寺は、天平13年(741年)、聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院である。この付近は、伊予の国府があったところで、僧行基により開創されたと伝えられる。
納経所にて横峰寺のことを聞くとバスの運行停止は、車両の通行止めのためのもの、歩き遍路の道はルートが異なるので可能だが、お寺は吹雪かもしれないと。この時期は、一日10人ほどしか遍路は来ないという。
国分寺の納経所を出ようとした13時半頃、雨が降ってきた。お寺の軒先で雨宿りをしていると、歩きの女性遍路が雨具もつけずに歩きだした。こちらの方を見て、この程度の雨でと言っているように微笑んで出て行った。暫くすると雨も上がり、歩き始める。1時間程歩くと道の駅今治湯ノ浦温泉に到着した。前線のような黒い雨雲が通り過ぎるのをやり過ごし、体も温まってから歩き始めた。
15時、孫兵衛作交差点を右に遍路道に入った。10分ほどで、西条市に入った。30分ほどで世田霊園の峠を越えると眼下に西条市が広がる。遠くの山は白い。横峰山が心配になってきた。地図では、この辺りから遍路道に入るようになっていたが標識を見落とし、迷いながらJR伊予三芳駅近くの敷島旅館に到着した。
16時半、すでに薄暗くなってきている。41,000歩、約25kmを歩いた。19時のNHKニュースを見ると寒波が到来しているとのことである。心配だ。
11:30国分寺に向かって遍路道を歩く。 |
間もなく、五郎兵衛坂を越えて西条に向かった。 |
11:40頃、遍路道を下る。 |
12:50国分寺参道に入った。 |
13:00国分寺に着いた。 |
第59番札所国分寺 |
薬師のつぼ、薬壺(やっこ)。ご真言に触れながら唱える。 |
握手修行大師像。弘法大師と握手した。 |
本 堂 |
大師堂 |
42日目
歩き遍路42日目、2013年(平成25年)12月21日(土)7時に宿を立った。女将からは、遠くに白く見えるのは石鎚山、近い山が横峰だから大丈夫と言われた。途中、道に迷いながら、9時半には、大頭(おおと)バス停付近に到着した。
ここから約8km、標高750mである。気持がめげて、ここで区切りとした。国道11号線を歩いて伊予小松から大阪に帰った。11時には、伊予小松駅に到着した。
香園寺近くの集落では、地元の女性からいろいろな話を伺った。今日のような日なら、今からでも横峰に行って帰れると。彼女の息子が中学生のときには、2時間で登ったとのこと。2月の連休は、寒さが厳しいので今日のような日はもったいないと。お寺は、そんなに雪深いところではないとのことであった。別れ際には、「重くなりますが」と沢山のみかんを頂いた。美味しいミカンであった。
43日目
2014年(平成26年)3月21日(土)この日は、7時には歩き始め、前回断念した標高750mにある第60番札所横峰寺を参拝して、第61番香園寺、第62番宝寿寺、第63番吉祥寺を打った。
伊予小松駅近くまで戻り、小松旅館に宿をとった。この日は、13名の遍路が宿泊しているという。18時からの1時間は、賑やかで楽しい夕食であった。
料理は、豚肉を中心としたボリュームたっぷりの美味しい鍋であった。同席の方々と遍路談義に花が咲いた。
多くの方は、3回以上の歩き遍路であった。そこで、気になっていたことを聞くこととした。88番札所で結願したあとどうするかである。皆さん、色々あるようで、特段の定めはないようだ。第88番札所の結願で終了する人、第1番札所まで歩き一周する人と様々である。第1番札所を打って終える場合は、第88番の後ろに朱印を頂くらしい。納経帳によっては、第88番の後の頁に第1番が印刷されているのもあるという。
後に自分の納経帳を見ると第88番のあとは空白ページが1頁空いていた。鯖大師で納経したおりに、1頁空けますよと言われたような気がする。その意味が分かった。1番札所の重ね朱が多くならないようにするためだ。
また、霊場開基1.200年行事に加わっていないお寺もあるという。いろいろな話があるようだ。沢山の遍路が集まる宿は楽しい。
前夜に乗った夜行バスは、6時前(時刻写真確認)に伊予西条駅に到着した。幾人かの遍路が一緒にバスを降り立った。JRで伊予小松駅まで行き、路線バスを利用し前回の区切りとした大頭(おおと)で降りた。
バス停からは、高知からの歩き遍路と一緒になった。自動車をJR石鎚駅に駐車し、歩いて車まで行くという健脚である。通常30kmは歩くという。
7時過ぎには横峰寺に向かって歩き始めた。7:40途中、へんろ休憩所を通過した。8:15横峰山4.7kmの標識地点で高知の遍路に追いついた。暫く、話しながら同道した。8:40登山口(階段道)前の休憩所で休憩、一人の歩き遍路が上ってきた。栄屋旅館に宿泊していたとのこと。登り口に近い栄屋旅館は、登り口の良い場所にあるようだ。
9:40横峰寺へ0.9kmの標柱、二人の遍路は先の方に行っている。10:10第60番札所石鉄山(いしづちさん)横峰寺の山門に到着した。
石鎚山は、標高1,982mの西日本の最高峰である。山岳信仰の地であり、修験道の道場でもある。横峰寺は、山の北側中腹(750m)にある。四国霊場のうちでは3番目の高地にあり、急な坂で「遍路ころがし」の難所である。息も絶え絶えで上ってきた。
縁起によると、白雉2年(651年)、役の行者が石鎚山の星ヶ森で修行をしていると、石鎚山の山頂に蔵王権現が現れ、その姿を石楠花の木に彫り、堂を建てて安置したのが創建とされている。その後、弘法大師が大日如来を刻み、これを本尊にしたという。境内は多くの参拝者で賑わっていた。
境内には、まだ雪が残っている。吐く息も白く寒い。10:50奥の院の星ヶ森に向かった。途中、夫婦連れと一緒に上った。ご主人は、若い頃、歩いて遍路をし、今回は夫婦で車で回っているとのことである。
10分程で星ヶ森の看板のある石積みの祠があった。石鎚山が正面に見えるが、あいにく雲がかかっていて山頂まで見渡すことはできなかった。しかし、山麓は光っていて美しい光景であった。小さな鳥居がある。ご主人によれば、大きな金属の鳥居があるとのことで、更に山を上ったが、残念ながら、らしき場所はなく途中で引き返した。12:00下山し、香園寺に向かった。
12時前には、横峰寺を下山した。1時間程下ると右足が痛くなってきた。暫し休憩、下り道が足に堪えたのか、寒さのためか、あるいは年のせいだろうか。雪が降ってきた。大した雪ではないが横なぐりである。
13時半頃には、下山道の途中に休憩所を通過する。14時、アスファルトの道に出た。舗装道の端には駐車場がる。ここに車を止めて上る方もいるのだろう。
10分ほどで香園寺奥の院白瀧に到着した。小さなお堂が佇んでいた。
15時前には、第61番札所香園寺(こうおんじ)に到着した。近代的な建物の御堂である。2階に大きな大日如来が祭られ、その横に大師像があった。境内には、本堂と大師堂を兼ねた近代的な大聖堂があり、傍らには子安大師堂がある。古くから子安大師として親しまれているようで、納経帳には、子安大師の印も押されていた。
縁起によれば、用明天皇(在位585〜87)の病気平癒を祈願して、聖徳太子が建立したと伝えられる。後に、弘法大師が訪れたある日、門前で身重の女性が苦しんでいた。大師が栴檀(せんだん)の香を焚いて加持、祈祷をすると女性は無事に元気な子を出産した。山号の「栴檀山」はこれに由来する。栴檀は、白檀(びゃくだん)とも言う。大正時代に「子安講」を始めて大きくなったようである。海外にまで広がり二万人を超えているという。15:20下山し、次の第62番札所宝寿寺に向かった。
14:20香園寺奥の院、白瀧を参拝した。香園寺まで2kmの標柱があった。 |
14:25遍路道にある休憩所。香園寺2.4kmの表示がある。距離が増えている。 |
14:30遍路道から高速道路の高架が見えてきた。 |
15:00香園寺に到着した。近代的な本堂が印象的である。 |
本堂の大日如来と大師像(右手) |
15:20第61番札所香園寺を下山し、20分ほどで第62番札所宝寿寺に到着した。国道11号線とJR線路に挟まれた小さなお寺である。
大正時代には境内を汽車が走ったため、寺を移転したという。かつては伊予三島水軍の菩提寺として栄えていたようだ。
縁起によると、聖武天皇の命による諸国一の宮の造営の折、この地に伊予の一の宮神社が建立されたのが始まりという。後に「金光明最勝王経」を奉納され、寺名は「金剛宝寺」と称していた。弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(806~10)で、聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。これを本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めた。以後、大山祇神社の別当寺として栄えたが、天正13年(1,585年)豊臣秀吉の四国征伐の戦禍で壊滅し、さらに明治の廃仏毀釈後の明治10年に再建されている。
16時には下山し、第62番札所吉祥寺に向かった。
15:50第62番宝寿寺を下山した。次の日の負担を考え、1.5km程の吉祥寺まで足を延ばすことにした。吉祥寺へは、遍路道を通らず、国道11号線を歩いたが、排気ガスと騒音に閉口した。
16:10第63番札所吉祥寺に到着した。小さなお寺である。かつては塔頭21坊の伽藍を誇った大寺であったが、近代化とともに線路と道路よって狭められたようだ。四国霊場の中で、本尊を毘沙聞天とする札所は吉祥寺という。
弘法大師がこの地方を巡教したのは弘仁年間とされ、大師が光を放つ檜を見つけ、この霊木で本尊とする毘沙聞天像を彫造したのが始まりとされている。
天正13年(1,585年)豊臣秀吉による四国攻めより全山を焼失している。本堂の手前に高さ1mほどの成就石があり、中央下の30〜40cmの穴に金剛杖を通せば願いが叶えられるという。残念ながら気がつかなかった。
16:30下山し、17時前には、旅館小松に到着した。44,200歩、26kmは歩いたようだ。
18時から1時間の夕食は、ボリュームのある肉の鍋であった。
この日は、13名の遍路が宿泊しているという。同席の方々と遍路談義に花が咲いた。そこで、気になっていたことを聞くことができた。第88番札所を打ち終えた後のことである。
第88番の結願で終了する人、第1番まで打って終える人と決まりはないという。1番で納経する場合は、第88番の後ろに朱印を頂くらしい。納経帳によっては、第88番の後に第1番が印刷されているのもあるとのこと。
後に自分の納経帳を見ると第88番のあとは空白ページが1頁空いていた。鯖大師で納経した折に、1頁空けますよと言われたことを思い出した。その意味が分かった。これで、第1番札所の重ね印が多くならない。いろいろな話があるようだ。沢山の遍路が集まる宿は楽しい。この日は、20時半に就寝、良く眠れた。
44日目
2014年(平成26年)3月22日(土)4:20起床。4:30には、周囲もガタガタと起き始めたのが分かる。周囲の音で目覚めたようだ。
6時に食堂に入ると既に食事が始まっていた。6:10には、大半の方が食堂からいなくなっていた。6時半に旅館を立った。
途中、芝井の泉、阿弥陀寺、石鎚神社を経由し、7時半には、第64番札所前神寺に到着した。1時間程参拝し、9時半に武丈公園を通過し、12時半には、新居浜市内のアーケードに入った。
この辺りから、久留米から来ているという遍路の方と多くの時間を同道していただいた。退職後の歩き遍路で単調な歩きが楽しくなった。
16時、別格12番札所延命寺参拝、お寺の前に投句箱があった。投句箱の前で一生懸命に捻り、2句を投句した。
咲きほこる花をながめて迷い道
山笑う道に迷う遍路にも
16時半には、この日の宿、蔦廼屋(つたのや)に着いた。54,900歩、約33kmを歩いた。食事では、舞鶴から来たという若者と楽しく食事をした。
旅館小松の朝は早かった。6時に食堂に入ると既に食事が始まっていた。6:10には、大半の方が食堂からいなくなっていた。
6時半には旅館を出発した。20分ほど歩くと芝之井、芝井の泉があり、大師堂の下から湧水が大量に出ていた。西条名水名木50選の一つである。四国と言えば水が少ないとの印象を持つが、西条には石鎚山麓の湧水が多いようである。
この辺りでは「うちぬき」と呼ばれている。昔は、人力で鉄の棒を地面に打ち込み竹を刺すと自噴したことに由来するようだ。
7時半石鎚神社に到着した。広大な神社である。本殿までは距離が有りそうなので、神門から参拝した。
石鎚神社に隣り合わせるように第64番札所前神寺があった。7:40入山した。山門を通り階段を上げると目の前に大師堂がある。本堂と間違えて先に線香をあげてしてしまった。時間が早いせいか、境内の参拝者は多くない。大師堂の奥に本堂があり、本堂から更に上る小高い所に石鉄大権現(いしづちだいごんげん)があった。
石鎚山(標高1,982m)は、富士山、白山、大山等の日本七霊山の一つであり、山岳信仰の山としても有名である。前神寺は、石鎚山の山麓にあり、修験道の根本道場でもあるという。
縁起によると、天武天皇(在位673〜86)の頃、修験道の祖・役行者小角が石鎚山で修行をし、石蔵王権現の尊像を彫って安置し、祀ったのが始まりとされている。その後、桓武天皇(在位781〜806)が病気平癒を祈願したところ、成就されたので七堂伽藍を建立して、勅願寺とされた。毎年7月1日からの「お山開き」には、数万人の白衣姿の信者たちが集まり、法螺貝の音に「なんまんだ」を唱和しているという。
8:30下山した。
6:40頃の遍路道。まだ、古い街並みが残っていた。 |
6:50番外霊場水大師堂。芝井の泉があった。地元では、「水大師さん」「お加持水」「長寿水」と呼ばれている。 |
7:15清水寺を参拝して歩いた。 |
7:30石鎚神社の大鳥居の前に出た。 |
石鎚神社の神門。境内は広大である。 |
7:40前神寺の山門に着いた。 |
大師堂 |
本 堂 |
境内の石鉄大権現から見た境内。 |
境内の不動明王。豊かな水を感じた。 |
8時半には、第64番札所前神寺前神寺を打ち終え、伊予土居駅近くの宿までを歩いた。9時半、武丈公園で一休み、公園で逆打ち遍路に出会った。第一声「疲れた」本当に疲れているよだ。ひょっとしたら夜通し歩いてきたのかもしれない。
12時半、新居浜市のアーケードに入り、途中の「ふれあい広場」でシャッター通りを見ながら、暫し休憩をとった。遍路経験のある地元の方との会話を楽しみながらの一休みであった。30分ほど後、久留米から歩き遍路の方と一緒になった。小松の旅館でご一緒した方だ。定年後の通し遍路(1回中断)の方で、この後と次の日、多くの時間を同道して頂いた。
16時、別格12番札所延命寺に到着した。参拝の後、お寺の前にあった投句箱の前で一生懸命に捻る。2句を投句した。
咲きほこる花をながめて迷い道
山笑う道に迷う遍路にも
16時半、この日の宿、伊予土居駅近くの蔦廼屋(つたのや)に宿をとった。54,900歩、この日は、約33kmを歩いたようだ。18時からの1時間は、京都府舞鶴から来たという若者と遍路談義で夕食を共にした。サラリーマン遍路で間もなく1年になるという。
宿の女将によれば、この旅館に泊まる歩き遍路の翌日は、次の日を考えて、伊予三島で区切る人、三角寺を打って岡田屋までの約30kmを歩く人の2パターンがいるという。
45日目
2014年(平成26年)3月23日(日)伊予土居駅近くの宿から65番札所三角寺の上り口で区切りとした。伊予三島駅まで歩いた。
2014年(平成26年)3月23日(日)遍路旅では朝が早くなる。6:10旅館を出発した。20分ほどで朝日が上ってきた。空気が澄んで気持ちのいい朝である。
暫くすると、昨日同道して頂いた:久留米の遍路と会い、この後、伊予三島まで大いに語りながら一緒に歩いた。
9:00八幡神社前を通過し、9:10高速道路の高架をくぐった。目の前には、墓地があり、三角寺まで4.5kmの看板があった。この日は区切りとして伊予三島駅まで歩くこととした。
10時前には、伊予三島駅に到着した。この日は、24,000歩、約15km歩いた。1時間ほど待って、特急しおかぜと新幹線を乗り継いで帰った。
6:20遍路道、日の出前から歩き始めた。 |
8:30ヘンロ小屋、秋桜、第43号を通過した。 |
8:40石床大師堂を通過した。 |
9:20三島公園下の三角寺上り口で区切りとした。 |
10:20伊予三島駅から帰った。 |
46日目
2014年(平成26年)4月25日(金)伊予三島駅から三角寺を打って下山、雲辺寺の上り口にある民宿岡田に泊まった。この日は、早めに宿に入ったが、19km程を歩いた。
朝6時半、JR伊予三島駅を出発し三角寺に向かった。快晴、風も穏やかである。歩いていると暑ささえ感じる。薄い長袖のシャツ一枚で歩くこととした。
7時過ぎには、前回、区切りとした三島公園下の看板前に到着した。標柱には、三角寺三十丁と刻まれていた。4kmもないようだ。途中の表示板によれば、今回は、「横尾~積善ルート」を歩くようだ。
8時、自動車道から山道に入り、1時間程歩くと第65番札所三角寺の山門に到着した。
境内の庭が綺麗で印象的である。樹木も多く、山寺の厳かな雰囲気を醸し出している。ウイークデイなのか境内には参拝者が少ない。静かで、僧の掃く箒の音と鶯の鳴き声だけが響いていた。
俳人・小林一茶が寛政7年(1795)に訪れ、「これでこそ登りかひあり山桜」と詠んでいる。
本堂の右手には、三角寺の由来になった池(護摩壇跡)がある。弘法大師が、四国八十八か所を開創した折、三角形の護摩壇を築き、遺跡が池になったものである。大辨天が祭られていた。縁起では、聖武天皇(724〜49)の勅願によって、行基が開創したと伝えられている。その後、弘仁6年(815)に弘法大師が訪れ、本尊の十一面観音像、不動明王像を彫られ、三角の護摩壇を築いて21日間、国家の安泰と万民の福祉を祈念したという。
納経所の和尚によれば、1,200年記でも参拝者は増えていないという。徳島は多いようだが途中でやめてしまう方も多いとのことだ。納経所に観音寺にある旅館のパンフレットが置かれていた。遍路価格6,100円が目に入ったので電話で明日の宿を予約した。
境内でのんびりした後、10時にはに下山した。
7:10前回区切りとした三島公園下の遍路道から歩き始めた。 |
7:40疏水記念公園(所公園)で一休み。 |
8:00遍路道の道標 |
8:40山中の遍路道 |
9:00三角寺の参道に到着した。 |
山門となる鐘門があった。鐘を一つ撞いて入山した。 |
境 内 |
本 堂 |
大師堂 |
三角寺の由来になった護摩壇跡の池 |
10時には、三角寺を下山した。下りの遍路道は、舗装道であるが車は僅かで眺めが良い。静かで気持ちの良い道である。
11時頃、山里に出た。旅籠屋「島屋跡」があり、土佐街道の石柱があった。土佐街道を歩いているようだ。
12時前、別格14番椿堂に到着した。狭い境内に立ち並ぶ団体に圧倒され、入ることができなかったが、暫くするとサッといなくなった。
13時頃、ヘンロ小屋、法皇第37号で休憩した。伊予柑のお接待があり、一つ頂いた。
伊予柑がのどを潤すへんろ道
伊予柑が春の季語、のどを潤すは夏の季語、失敗句だろうか。
風が出て来た。13時半過ぎ、峠付近の民家の庭先に見事に咲いた桜があった。桜の横の自動車道にはベンチが置かれ、休憩できるようになっていた。暫しの桜見物の休憩とした。
14時、境目峠を通過した。愛媛県と徳島県(香川県ではない)の県境である。伊予の国、愛媛県を終了した。
15時前、集落に下りる手前に酒屋の看板が目に入った。冷たいビールをと思ったが、残念ながら閉まっていた。15時には、宿に入った。宿泊者は、裏手に回るようにとの表示があったので行ってみると老人がいた。杖を洗い、部屋の床の間にある小さな座布のような敷物の上に杖先を乗せ、立てかけて頂いた。雲辺寺の道を聞くと、夕食の時にちゃんと話すから心配ないと言われた。正に遍路宿の好々爺だ。
風呂待ちの間にビールを1本、美味い。窓の外は川、せせらぎの音が心地良い。35,000歩、約21kmを歩いたようだ。玄関を見ると綺麗に並べられた靴の中に乾燥剤が入っている。細かいところまで気遣いされている。宿で気持ちよく迎えられると一日が気持ち良い。わが身を振り返るとトホホ。
この日の宿泊は9名、満室である。18時から2時間、夕食を一緒にする。遍路談義が楽しい。宿のご主人からは、2枚の手作り地図で雲辺寺から観音寺までのルートの説明を受けた。部屋に戻ると間もなく、隣の部屋は消灯。次々と部屋の明かりが消えていった。21:00消灯し、眠りについた。
2014年(平成26年)4月25日(金)伊予の国、愛媛県を打ち終えた。翌日は、雲辺寺、涅槃の道場である讃岐の国、香川県に入る。